桜の開花はもう直ぐです。

 慎みたいのは、その場の感情に流され誤った判断で行動を起こしてしまうことです。ですが多少は g-mon の感情を抑えられるようになったと思うのですが時にこぼれ出てしまいます。ですので謝った行動であったと気付いた時には大恥をかきながら出来るだけ早く、ハッキリと謝りたいと思いますしそのようにして来たとは思っています。

 真面目に生きて、それなりに考えてことを進めているつもりでも様々な局面に置いて必ずしも g-mon が正しいわけではありませんし結果が出てみなくては判断も付かないことも多いのです。それでも両親・家族、先生・先輩、同僚や仲間達から教えを得たり支えて貰ったりしながら、ある見方をするならば g-mon 磨きの毎日です。

 先日、父が他界しました。四月一日は母の三回忌ですが待つことせず「桜の頃にまた会おう」の句の通り、相変わらず自分の考えで全うしました。大したものだと改めて思うと共に、これからは直接教えを乞う事が出来ない寂しさがあります。せめて父のように深く物事を見れるように心穏やかにいられたらと思います。
 

会話のコツ

 とても難しいのは相手の気持ちになること。ニュースその他で知る相手に対しその気持ちになり行動していたとするならば自分自身がつぶれてしまうのですけれど、せめて相対して話す機会のある方とは大切な時間を共有したいと思います。

 仕事では、つい自身の思いを言葉に出してしまい同僚に注意されることも多いのですが仕事以外でも自分発信が多いような気がします。もしコミュニケーションが必要ならば相手の思いを聞かなくては何も始まりませんし何も生まれないのに。

 とは言っても相手の気持ちになるべき時のコミュニケーションにも目的があるわけで相手の気持ちになり(状況を理解し)つつも自分自身の経験や知識から相手に届く言葉の繋がりを探し出し組み立てタイミングを計り口を開かなくてはなりません。

 それは人と人が触れ合う大切な行為。ボディータッチなどのコミュニケーションも当然あるのですが、より多くの方と触れ合い自分自身を形成していく大切な行為なのだと思います。そしてそれは、キット母親が子供に接する態度なのでしょう。
 

お節介な奴

 見えていない人は自身の失態を隠し(触れずに)他者の足を引っ張ることで自身の正当性を吹聴する。そのような人間を小人と呼ぶ。良い人なら褒めればよく、悪人ならば罰すればよい。したがって人の世で最も困るのは小人である。

 面白く読ませていただいているジョージ秋山さんの漫画、浮浪雲にあったセリフです。そもそも見えていない人は自分自身は汚れないように身を守っているのだから見えるわけがない。結果、成功するわけがない。見えていないということは、そう言うことです。

 それでも恵まれていれば上手くことが運んでくれる場合もあります。「それはそれで良いじゃないか」とも思うのですが幾らかでも見えていればあちらこちらに歪が出ていて長い目で見れば不幸な結果に陥ることがわかります。それを黙って見過ごすのも辛いものです。

 「何とかしなくては」と見えていない人が気づかないところで恵まれた環境を整える。そのような人間をお節介と呼ぶのでしょうね。どちらも持って生まれた性分なのでしょう、一生変わらないのかも知れません。でも、出来れば見えてないことに気づいて欲しい。やっぱりお節介ですね。
 

他人目線

 「 g-mon は細かいところがある」と自身の口から言ったのに考えていたところと違う部分を指摘され多分変な顔をしてしまったのでは?と心の中で笑ってしまいました。 g-mon は「どの様に人から見られているのだろうか」と気になる時もあります。

 慌て者である。ある線を越えてしまうと簡単にパニック状態になってしまう。言ってしまえば器が小さい。しょうがないから器の数を用意してごまかしている。対応している?それが周囲の人からどう見えているかは分からないですけど、そう言う個性なんだと思います。

 そんな見え見えな性格ですが苦笑いしながらも皆さんお付き合いしてくれます。一緒に仕事をするのが楽しいと思える職場に巡り合えたのは本当に幸せなことだと感じています。そしてそんな仲間達に対して g-mon も気になる点があります。

 それは皆さん「決められた仕事を真面目にやることに満足している」ことです。「それの何が悪い?」と聞かれそうですが悪くはありません。でも良くもない気がするのです。大切なことは「決められたことを真面目に熟しながら、もっと良い方法を考える」ではないでしょうか?

 それは「慌て者」で「すぐパニックになる」し「器が小さい」人でも出来ることだと思っています。そうで無い人ならなおさらです。キチット真面目にやっていたってトラブルは必ず起こります。それを「自分は改善して良いんだ」と1段上の位置から仕事を見てくれたら。自分のことは見えないんですけど人のことは見えたりします。
 

俳句の世界

 「椿のことは椿に桜のことは桜に聞け」とは俳句でのお話し。ものをシッカリ見ろとの教えでしょうが椿を幾ら見ていても椿、風が吹き枝が揺れたり雲と重ねたりする様をみるのでしょうか?それとも椿に語りかけ心でみろとでも言うのでしょうか?蜆の味噌汁「蜆(しじみ)のことは蜆に聞け」じっと見ていたら折角の汁が温くなる。

 俳句に限らず1度発信された言葉は読み手しだい。力量の差もあるでしょうが読み手の状態によっても言葉への感じ方は大きく変わるようです。それも力量と片付けてしまいましょうか?誰からの言葉でも何時も平常心で自身が望む自分らしい受け止め方が出来、一呼吸置いての返すことが出来たら素晴らしいと思います。

 少しづつ春めいてき母の命日も桜の花と共に近づいてきています。以前は「わー綺麗!」とただ喜んでいたのですが、あの日からは同じ心の中に寂しさも同居するようになりました。今年の桜は何を語りかけてくれるのでしょうか?お天気に恵まれ包み込まれるような温かさの中で散りゆく桜を目で上に追い、空に語りかけられたらと思います。