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影の世界?

 自分が知らなうところで自分のことが話し合われていることはよくあることのようです。それは、自分にとって良い方向の時もあれば、どうも良いとは言いにくい場合もあるでしょう。私は苦手ですが戦術としては、有りでしょう。

 その見えない世界で私のために骨を折ってくれる人がいるとすれば、結果がどうあろうとも私にも多少の人望があったということで、これはもうありがたいことだと思います。今一度気を引き締めて自分の姿勢を正すべきでしょう。

 それ程に人の気持ちは、温かくもあり冷たくもあるのですが、冷たい時にはその方の都合が大きく出、温かい時には、その方の人情味が大きく出ているように思われます。人のことを思えるのもその方の素養、良い性質です。

 自己中心的な私は、人のことを思うことが少ないと思っています。特に、集まった時にその場に居ない特定の誰かのことを話し合うのは、どうなのだろうと思いますし失敗も多くしています。やはり他人のことは慎重にと思います。
 

道を探す

 その人の気持ちに近付くことが出来たとしても、その人に変わってあげることはできません。出来るのは、その人の心に寄り添って一緒にその人の幸せについて考えることだけです。考えるのですが、正解は私には見つけられません。

 結局のところ答えは、その方自身が見つけるしか無いのでしょう。その方が沢山苦労をして正解を探すのです。ただ、この答えが絶対正解だというものはキット無く、その人自身が”これが正解だ”と決め自分自身を納得させるのでしょう。

 残念なことに、私の進む道が閉ざされていたり自分自身で決められない時も沢山あります。残された道が険しい道だけだったとしても、人が比較して私が不幸だと思われたとしても、私は、自分自身が納得していれば、私は幸せなのです。

 そう、その人の全ての道が閉ざされていると思えたとしても、その人に道を探す力が無かったとしても、生きているのであれば、それ自体が新しい道なのだと思います。私は、寄り添い残された道を少しでも良いものにできたらと思うのです。
 

ISO?

 落ち込んでいる時に同僚が「今日は楽しかったですよ」と声を掛けてくれました。私が何時も「仕事が楽しい」と言っているから応援してくれたのだと思います。「私はg-monさん押しだから」と言ってくれた人もいます。落ち込んでなんていられません。

 マネジメントの基本は、ルール作りです。ルールとは、仕事の手順です。その内容は多岐にわたりますがルールは、失敗を減らし仕事の品質と効率を上げます。つまり仕事の価値を高める基本中の基本がルールですので誰もが知っているべきです。

 声を掛けてくれる同僚たちと知っているルールの交換をしました。お互いに知らないルールが沢山あり、まちまちに教わっているルールもあります。もちろん改善の余地があるルールやルールそのものが無さそうな仕事もありました。不思議です。

 大変な作業ですが文書化が必要です。でも、文書化が出来れば、仕事の共通認識が生まれますから、それにそって皆で話し合い仕事の見直しが出来ます。改善が生まれ仕事の価値が高まり仕事へのより強い誇り生まれます。道は遠いのです。
 

夢を語るとき

 私は違ってましたが初めて仕事に付くときに多くの人は夢を持っていたのではないでしょうか?それが数年や今少し長い月日が立った頃には毎日の仕事に追われ出来ること出来ないことの線引きが行なわれ何時の間にか夢を忘れてしまう。そんなことありませんか?

 やりがいのある仕事は多いのに、いえどの仕事にもやりがいはあるのに仕事に対して夢を持ち続けることができる人は多くはないのでは、と思っています。夢のイメージと実際の仕事が違っていたのかも知れないし夢の範囲は比較的早い時期に達成したのかもです。

 でも、どの仕事にも特別な理由がない限り終わりはありませんしこれで完璧もありません。変化は必ず訪れるし自分から変化を作ることもできます。そして自分自身の夢を変化させ自分自身が絶えず変化していくこともできます。それがやりがいなのだと私は思うのです。

 やりがいは行なった仕事を喜んでくれる人の笑顔です。直属の上司や同僚かも知れませんがお客様の笑顔だったり売り上げ増につながる何かだったりもします。そしてそれは他者から与えられるときもあるのですが多くは自分で見つけ出さなくてはならない。そう思うのです。
 

嬉しい時

 クリスマスプレゼントをサンタさんから貰った子供達は、嬉しいのにとぼけて見たり、無邪気に飛び跳ねて見せてくれたりします。サンタクロースを信じている大人は、希だと思いますがこの日ばかりは、多くの人が信じているように思えます。

 多くの大人逹は、実際にサンタは居ないと思っているけれどもその日だけは居ると自分に言い聞かせることができる。それは子供たちの笑顔や喜びを一緒に感じたいと思い実際に自身も幸せだと共感することができるからなのだと思います。

 邪気は、すなおでない、ねじけた気持・性質。わるぎ。などとと解されますが無邪気になれない方も多いのでは?と思いますが喜びを子供達と共有することができる時に人は無邪気に返れます。いえ、子供だけではありません大人ともです。

 誰かと喜びを共有できた時には、誰しも無邪気になれるのではないでしょうか。それが自分中心でなくとも例えば、誰かの努力や頑張り才能の結果を喜ぶ時や成長の証を見せてもらった時に我が事のように喜ぶことができるのは幸せです。
 

頑張れる

 誰だって挫ける、ことはあると思います。でも、私以上に様々なことを上手くできる人は大勢います。その時点での自分は出来ない出来ないを認めたくない努力すればもっと出来ないが明らかになってしまう、と考えるのも自然な流れかも知れません。

 出来ない人の苦しみは、出来る人には分からないと思います。そう思うのは偏見?一部の出来る人は、分かってくれ自身の経験を基に手を差し伸べてくれるかも知れません。それを素直に受け入れられるかどうかも出来ない人の心に掛かってます。

 その時々には、無理かもしれませんが気持ちの整理を付け、自分の出来ないを認めて何が問題なのかを客観的に見直すことと恥ずかしい気持ちを押さえて出来ないを克服するために何をすべきかを真剣に考えれば、道が開けるかも知れません。

 どうせ出来ないと開き直ってもいいと思います。問題は、その後です。どうせ出来ないには理由があるはず、ならばその理由を突き止めて出来るに変える方法もあるはずです。生まれた時から人間は出来ないの塊なのです。だから人間は頑張ります。
 

頑張れない

 頑張れないと言うか結果が出せない人がいます。私自身も頑張っているつもりでいても結果が出せないことも多々あるのですが諦めが悪いのと周囲に恵まれているので他の方々より時間がかかっても結果は付いてきてくれます。

 頑張れないと頑張らないとは違います。今の結果にそこそこ満足し特に頑張ろうを必要としない人は少々の不満を述べる場があれば十分なのでしょう、生きて行けますしその先の欲はありません。欲の多いのは頑張れない人の方です。

 頑張れない人の声は大きかったりします。毎月幾ら以上でなければ働く気にならないとかこれが上手く行けば大金が入るとか仰います。実際にそれなりのチャレンジをされているのですが続かなく体調が悪いとが自分は運が悪いとか。

 実際に運が悪いのかも知れませんし人それぞれなので生き方は自由だとも思いますが頑張れない人も頑張らない人も少々論理性に欠けているような気がしています。誰でも失敗はする、失敗すれば挫ける、それでも頑張れば、さて?
 

指摘される

 相変わらず色々なことを人に指摘されてから気付く毎日です。良いことは、あまり指摘されずに悪い事を細かく指摘されるのが常なのですが私が何か変わったわけではありません。と考えれば、悪い事を昔から沢山抱えていたのでしょう。

 悪い事が気になっても指摘しない人も中にはいます。悪い事を悪い事と思わないかも知れない。でも、それらがとても気になる繊細な細やかさを持ちそれを鍛えている方からすれば指摘せずにはいられない。相手が言いやすい立場ならなおさら。

 これはチャンスです。自分ではなかなか気付けない悪い事を指摘され腹を立てるは、とてももったいない。指摘されたことを真面目に受け止め影響する範囲などを深く考えることで今まで見えなかったものが見え、何が問題なのか分かります。

 私は欠点の多い人間です。そう自覚しているのに自分ではその欠点に気付けないことが多々あります。指摘されなければそれまででしょう。指摘されたことを深く考えその後にどう選択しどのように行動するかで私という人間は変わります。
 

託したもの

 もう随分と前の話になってしまいますが同僚にこれからの技術の方向を尋ねられ「センサー、無線通信、インターネット、データーベース、マトリクス、人工知能、BIツール」を常に意識した開発を薦めました。

 その後、同僚の部下からも技術の方向性に付いて尋ねられたので「リナックス、仮想空間、クロスプラットフォーム、プログラム分析」などについて話した。それぞれの技術は難しくは無いけれども繋がったかな?

 私が私の関わった仕事では、そうしてきたように、ジュニア(息子)は、ジュニアなりに繋げて少しづつ深く広くして行っている。先が見えているかと物事を恐れず受け入れられれば、誰でもそうできることだと思う。

 一部の天才を除けば、人の想像力は重ねた経験と知識によって変わることは誰もが知っている。そして一人一人に合った重ね方を選択しなくてはいけないことも知っている。成長を見てみたいと思ったりする。
 

思考の成長

 最近思うのは、論理的思考にはその時その時の限界があるということです。当たり前ですが知識がないこと経験のないことには、なかなか思いが至りません。思考の経過での不自然さへの気付きとそれに続く学習が必要なのです。

 気付きにもいくつか種類があるようです。経験を積むことにより目の前にあっても見えなかったものが見えてくる気付きや失敗をして見えてくる課題に対する気付き、良き師から与えられる気付き、自身を疑うことによる気付き等です。

 この中で難しいのが自分自身を疑うことにより見えてくる気付きだと思います。思い込みや生真面目さが気付きを邪魔するときもありますし人間だれしも自分を否定したくはありませんから間違いに気付きつつも認めたくないのです。

 その人の勝手ですからそれを悪いといっているわけではありません、伝えたいのは、限界は自分が正しいと思う心から生まれているのではないかという私が今考える論理的思考です。思考の成長は自身を疑うことから始まります。
 

落ち込んだ次の日

 夢を見て挑戦して落ち込んで立ち上がりまた夢を見る。この繰り返しの人生がどこまで続くかは分かりませんが何度でも立ち上がってやる!と今は思っています。そしていつの日か「これだけ頑張ったんだからもういいか」と安心するのでしょう。

 自分の未熟さ無能さは良く知っていますが挑戦するのは私の勝手、やりたいことをやりたいようにやってきたように思います。そうでない方逹からは反感も持たれもしましたが全ては気持ちの持ちよう、私には我儘に生ききる才能があるのです。

 ただ思うのは、ずっと我慢し続け終える人生や流れるままに流されて終える人生、たった一人の人のためや子供のためにだけ生きる人生なども素晴らしいということです。たった一度の人生、私にはできない素晴らしい人生が沢山あるのです。

 誰かの人生をとても素晴らしいと思ったとしても私は私の人生と比べることはしません。劣りもしなければ勝りもしない私の人生の特徴はただ一つ、私だけの掛け替えのない人生だということ。何度でも立ち上がります、満足するその日まで。
 

分岐点

 誠意や愛情を受ける側は、あまり感じないのかも知れない。もちろん私だけなのかもしれないけれども、振り返りあの時あの場所で受けた一言だったり少しの行動だったりが私に対しての贈り物だったのでは?と思い起こされることが幾つもあります。

 贈り物がきっかけで勇気づけられたり何かに気付かされたりして私の行動が変わり世界が変わりました。でも、その時々に私は私のことしか見えていなかった。その時その時に夢中になれる何かが生まれ、それを楽しむことだけで満足していました。

 お陰様で随分と良い思いをさせて頂いてきたのですが授けてくれた人側の気持ちの強さと受ける側の結果に関係性は無いのだろうとも思います。ただ、その時々において私は感謝をして来なかったことが悔やまれ、今更のお陰様を伝えたいのです。

 結局のところ私自身は、誰かに贈り物をすることが無かったように思うのですがそれも少しばかり残念に思います。そんな風に感じるのは、今私はそれなりに満たされていて私なりに生き方の分岐点に来ておりよりよく生きたいと思っているのでしょう。
 

見守る

 対象にとってよりよき未来を守るために見守りが必要であると思うのであれば、対象がこれから進む可能性のある道について知っていなければ成らないハズです。

 もちろんその道は対象が自ら望んで決めて行く道ですから見守りも対象をよく知ることから始まりまるハズです。そしてこれから起こる可能性のあることを考えます。

 想像力を働かせ、足りないところの情報は調査し、対象が歩く可能性がある道で起こる障害を見極め、対象を守るに不足している知識を学習で補う必要があります。

 対象を守るために必要な知識を得たならば、これから起こる可能性のある障害に対し備えを行なう必要があります。そこまで行って初めて見守りは意味を成します。
 

裏切らないために

 信頼とは、と考えてみると、どうも真実とは違うような気がします。全てが解明されるまで信頼しないということも無いように思いはしますが、真実は、その時代や環境に置いて誰も(それなりの知恵者)がナルホドと思える論理的な裏付けがあって初めて真実と言えるのでしょう。信頼には、そこまで強い裏付けは無いように思えるのです。

 信頼は継続的な行動の結果ではあるのですが、行動を見てない相手に伝わらないのは当たり前で見る目(気付き)の無い人、現状維持が目的の人、などからは上っ面だけでしか評価されずに信頼も得られません。もし論理性や感情を超えたところに真の信頼があるとするならば、五感の上にある何かで判断しているのだと思います。

 過去においても現在でも、多くの人が私の真実に足らない行動を通して信頼を寄せてくれていると思える時があります。そんな時には、私への信頼を後押しして下さる方が何時もいるように思えます。その核は、古くは父母だったでしょうし良き友人だった時もあります。その後押しは注意しなければ気付かず自身の手柄にしてしまいます。

 私には、そういった方と巡り合える幸運があるような気がしています。それは自分の立場や力量も考えずに人の心配をしてしまう性格にあるのかも知れないし、少なくとも人に対する時には真実だけを表に出そうとする気持ちのお陰かも知れません。そして私が未熟だからこその温かい後押しなのだとも思います。前向きに生きなくては。
 

原石

 「頑張って」と二十歳に届かない子が応援してくれる。「頑張るねー」と二十どころか随分と先輩の方が笑顔を届けてくれる。「失敗してもくじけるな」と先輩が応援してくれ、意地悪だと思っていた方がとても生き生きと知っていることを教えてくれる。

 昔から私は恵まれていると思っています。思っていますがこの十数年にご縁のあった方達とそれ以前にご縁があった方達との何と言いましょうか、濃厚差が違うように感じるのです。私が相手に対して心を開ける様になってきたのだと思うのです。

 どんな時にそう感じるかというと以前より感情を表に出すようになりました。ですが喜怒哀楽でいうところの怒りの感情は薄くなり他の感情、特に哀楽が濃く涙もろくなり繰り返しのことにも意義を感じ楽しめるようになりました。それが喜びなのです。

 もしかしたら良き隣人に出会えたのは、運だけでは無いのかも知れません。嫌なこと辛いことが無い訳でもないのですがそれ以上の応援を隣人たちから頂いて今を生きてます。それは私が仲間達によって多少磨かれたからなのかも知れません。
 

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お手本

 「その仕事を担当したことがあるのか、どこまでが責任範囲か知っているのか」を聞いてくれた人がいました。3回目であること、1回目と2回目は言われたことが少し違うことを伝えると、笑いながら説明をしてくれました。

 責任範囲は、思ったより広く、曜日によって少し内容が変化することを教えてもらえました。お陰様で段取りを工夫し考えながら仕事ができたので効率と出来栄えに我ながら満足、教えてくれた人も喜んでくれました。

 その先輩は、私の失敗をけっして責めません、それどころか笑顔で対応してくれます。人それぞれですが仕事の指示はするけれども説明はせず失敗、というより知らずにできなかったことに対し嫌な顔をする人もいます。

 さて、私はどちら側の人なのだろうか?教えることに対しては決して要領の良い方だとは思いません。若かりし頃の私は恥ずかしいくらいダメでした。幸い良き手本が現れてくれました。であるので頑張ろうと思います。
 

それが私

 ポジティブでバイタリティがあると言われるのですがその実ネガティブで疲れ切っていたりします。何時も笑顔でいるねと言われますがそのように装うが長く続いて何時の間にかそれが普段になっただけです。

 時々弱音を吐きそうになります。自問自答しながら解決策を探し出し弱音をそっと飲み込みます。ですから表に出ている自分と陰に隠れている自分は違うのだろうと思っています。

 何れにしろ昔からそうであった訳ではなく数々の失敗を重ね苦い思いする都度に少しづつ自分自身を変えてきた結果が今です。ですので立派な訳でも無ければ褒められるような存在でも無いのです。

 影は一人きりの時にそっと出し人に迷惑が掛からない範囲で遊ばしてやる程度で良いのです。何かに打ち込んでいる時に影は必要ありません。頭を切り替えてしまえは、そこには表の私しかいません。
 

幸せを呼び込む

 誰かのために何かを行うことを楽しく感じ、その誰かが笑顔やありがとうを返してくれれば楽しさは嬉しさに変わります。そのご縁が続けば、多少のやり取りが生まれ誰かのためにができない時は少し寂しかったりします。

 それが人と人との心が触れ合う自然な流れなのだと思うのですがご縁というものはなかなか得られなかったりします。恋愛などに限った話ではないのです。個人商店での売り手と買い手のやり通りなどもその一つです。

 何時の間にか誰かのためにではなく、決められた時間に決められたサービスを決められたルールの範囲でそこにあるものに対して提供するだけの方が増えたように思います。笑顔は見せますが嬉しさは、ありません。

 それが悪いというわけではないのですがそういった日が繰り返されると心の隙間が穴に変わり広がってしまう時があります。単純が面白くないに変わります。どちらも些細な切欠なのですが幸せと不幸の選択なんです。
 

ごまかす

 人は、恥ずかしいと思うと事に対して、ごまかそうとし様々な態度を取ります。おちゃらけたり、赤面し固まってしまったり、人によっては責任を誰かに押し付けて怒り出す方もいます。それが自然ですので恥ずかしいに気付かないのが一番です。

 恥ずかしいとは、他の人に対して自分がどの様に映っているかという声なき声を気にし、嘲笑されているのではないかと思い苦しむ現象です。ですので気にしなければ良いだけのものなのですが気にしだすと何かに付け笑われている気がします。

 もしまだ思考の欠片が残っているのであれば、恥ずかしいと思う理由を客観的に考えると良いと思います。自分に出来なければ人の手を借りてもいい、教えてもらったり代わりにやってもらったり、周囲の目にとって何が一番喜ばれるか考えます。

 私にも恥ずかしいという思いは沢山あります。不器用だったり容姿が気になったり一般という物差しと比較し劣っていると思うことが沢山あります。でも一般と自分を比較するのが無意味だということも知っています。この世に自分は一人ですから。
 

誓う

 悔しいことに仕事で同じミスを繰り返してしまった。慣れてしまったのか何時も急がされている感があるので早さよりも丁寧さを優先するという大切なことが疎かになっていた。何れも同僚たちがカバーしてくれたが疑問が残る。

 こう言ったら問題があるのだけれども手抜きを至る所で見かける。それに付き合わされる場面も多い。逆に面倒な仕事をスムーズに熟している方もいる。熟練の技と仕事に対する姿勢の問題だと思う。そこに到達したいと思う。

 だから流されない工夫をしよう。多少の空くように成った時間を生かそう。手抜きをその場で指摘したり合わせなかったりすることは難しいけれども自分一人の時は、やるべきことはやる、というルールをもう一度再確認しよう。

 頭を使かって工夫をしよう、振り返りと見回しをしよう、私にはそれが出来るはずだ。人と人を比較する必要は一つもない。技術技能が伴わなかったり知識が無かったりするのは仕方がない。だけどやるべきことはやるべきだ。
 

若気

 人を見下して接する人は、真の実力が無い人だと思う。キチット話を聞いているとその場の勢いなのか嘘や間違えが混じっていることが分かる。ただ、こういう人は相手によって態度を変えるので上からは、分かりずらいかもしれない。

 そんな方が間違って上の立場になると困ったことになる。身の保身が最優先なために人が出来ることを自分ができない時には相手を批判したり耳障りの良い人ばかりを集めるために真の責任を取れなくなるからだ。要は実力がない。

 本来、上の立場になるということは、才能のある上司に巡り会え学び行動し幾つかの失敗を乗り越えて少し広い視野で物事を見聞きし考え判断できるようになることだと思える。であるのであれば、保身は最も学びを妨げると考える。

 この世の中、保身ばかりの人でも無いけれども、そういう方が一定数いるのも事実だと思う。そしてそういう方に出会ってしまったら諦めるしかないのではないだろうか?お気に入りの一人に加えてもらうには、私はまだ若過ぎるから。
 

今できること

 それほどでもないと思うのですが「真面目だね」と声を掛けて頂けます。誰にですか分からないのですが「期待されているよ」と言っていただけます。嬉しいのですが今のところ真面目にやる以外の手立てがないのも事実です。

 特別に真面目なわけではなく普通の真面目なのですが若いころの世の中を斜めに見るような態度が無い分真面目に映るのかも知れません。誰だって真剣に覚えたいと思えばある程度は真面目な態度にならざる負えません。

 色々なことを覚えました。ある程度のことはできるようになりましたが、まだまだ覚えなくてはならないことが沢山あります。技術技能は、まだまだですしスピードは遅いようです。何もかもが初めてのことなのですから楽しみます。

 ただ、真面目は誰でもが喜んでくださるわけでも無いようです。真面目でない人?人を見下したい方?理由は様々なのでしょうが痛い目線を感じないわけでもありません。その気持ちも何となくですが分かるのでいいと思います。
 

早くも師走

 近況をお世話になった方に報告しようと電話を掛けました。留守電でしたので要件を話し掛け直そうと思いましたら慌てて受話器を取っていただけました。最近は、詐欺電話なども多いのでご注意されていたのでしょう。

 1年ぶりの懐かしいお声でした。喜んでくれ「是非会って話をしよう」と言っていただけました。私のような者を気にかけていて下さっていたことが嬉しくて、私の声も自然と弾んでいました。たったの1年なんですけどねぇ。

 お会いできればなお楽しいでしょう。年相応に体はキツイと仰っていましたが、まだまだお若い、お話しされたいことも沢山あるようでした。私も同じ、と言っても今は自分を鍛えなおす期間なので華々しいものはありません。

 幸いなことに私には、色々な分野、年代、性別の話し相手が居ます。私自身のことを話さなくても色々な話を聞かせていただくことで自分自身のことを別の視点で気付くことができます。私の道は正しいのか?楽しみです。
 

存在理由

 自己中の私のため今まであまり意識してこなかったのですが人は役割という繋がりによって存在していることを強く感じるようになりました。例えば病院という役割を考えれば、医師や看護師の中にも細かな役割分担があり、それを支える人達も大勢います。

 医療技術、看護技術、それらを支える技術を進化させる方もいれば、それらを広める役割の方もいる。その力を国力に変える方がいると思えば、単身その力をもって弱く名も無き人のために働く方もいる。それらは医療だけでなく全ての分野で行われています。

 もう少し広く見れば生命の連鎖もまた繋がりであるのは、役割分担と言ってしまうと少々違う気もするのですが誰もが知っている通り密接な繋がりで出来ています。そしてそれらは無機物や太陽というエネルギーを基盤に大きな繋がりである宇宙へと広がります。

 最近の学説ですと宇宙は多数あり絶えず新しい宇宙も生まれているとのこと。逆に考えれば絶えず無くなっている宇宙もあるのでしょう。それら全てが繋がっていてその繋がりの恩恵で私は今ここにいる。ですから私はその時その時の役割を大切にしたいのです。
 

あなたは?

 最近「ありがとう」という言葉をよく使うし「ありがとう」とよく声を掛けられます。以前はどうであったか思い出そうとするのだけれども「ありがとう」をよく使っていたのは一部の人に限られていた様に思います。その人数が少し増えたのです。

 そういった目で周囲を今一度見回すと「ありがとう」という言葉を使える人と使えない人に分かれ「ありがとう」を頻繁に使える人は少ないことに気付きました。「ありがとう」を使わない方も多いのですが「ありがとう」は、とても目立つのです。

 よく使う方は、やって当然というようなことに対しても「ありがとう」を使っています。逆に「ありがとう」を使わない方は、掃除をしてくれる、お茶を入れてくれる、といった行為に対しても当然と思っているので「ありがとう」は使わず黙殺します。
 
 「ありがとう」は感謝の言葉であり相手を認める言葉です。ですので「ありがとう」を使う人が少し増えただけで随分と周囲の空気が和みます。逆に「ありがとう」が無い環境は殺伐さを感じます。私は「ありがとう」に好感を感じるので使います。
 

残念なこと

 真実は、分かりませんが佐SA野の話を聞いて恨みってあるんだろうな、と思いました。その根底にあるのは”恥をかかされた”といった思い、心の傷なのではないかと思いました。正論かどうかなど関係ないのです。立場を利用すれば理由等どうにでもなりますから。

 ”可哀そうに”と私は思います。恨みを持たれた方にではなく恨みを持った方を憐れんでしまいます。恨みを持たれた方は、説明が下手なんだろうな、とも思いますが相性もありますから。恨みを持つのは、簡単なことではありません。よっぽど悔しかったのでしょうね。

 アフガニスタンで中村医師が殺害されたニュースも飛び込んできました。随分と前に恩人である先輩から本やビデオを貸していただきその活動を知りました。現地の人達に引き継げる江戸時代の工事技術を使っての幹線水路作りです。農業と共に人が戻りました。

 そんな方ですから過激派と言われる組織からも”彼は敵ではない”といわれていました。殺害理由は分かりません。想像できることは、70歳を過ぎた中村医師自身「後20年あれば」と頑張られていたそうですが改善の速度は遅くなるであろうことです。無知もまた罪です。
 

最初の一歩

 この世に生まれ暫くは大人という先人達が後輩の道を指導してくれる、それが一般的です。少年から青年になり成人していく過程で自分で道を選び、時には新しい道を作ろうとします。新しい道を作るのには、当然苦労を伴いますが達成感を味わえます。

 新しい道を作るには、気付きが必要です。それは、日々の仕事の中に見つけたり突然閃いたりするものなのですが、何れにしても物事に真剣に取り組んだ時に気付きが生まれます。これは手間がかかるとか、もっと出来をよくしたいとか、の気付きです。

 自分の仕事に黙々と打ち込み目立たないけれども気付きの塊のような同僚が居ました。小さい事から積み上げて扱うデータの集約を何時でも提出することが出来ました。特筆すべきは、そのデータの正確性です。1つ1つのデータの精度を上げました。

 惜しいと思ったのは、そのデータを生かす使い方に気付く上司が居なかったことです。感と勢いだけで仕事ができる時期もありますがデータの裏付け無くして真の成果は測れません。ポジション毎の別の気付きが必要なのですが、気付きも才能ですから。
 

現場を忘れる

 分からないこと出来ないことに対しただ闇雲に数を熟しても上達は無い、または上達するのに随分と時間がかかります。もし、教われないのだとしたらば自分で調べ実際に試してその原理原則を理解し出来るようになるしかありません。

 ただ、組織として新しい仕事にチャレンジする場合の最初の一歩でしたらそれでも良い、とは思いますが誰もが通る道であるとするならば、社内研修や先輩から後輩に伝える項目として整理しておき仕事レベルに合わせ指導すべきです。

 これが意外に出来ていません。その結果、仕事のロスや品質の低下が起こり時間とコストに大きな悪影響を与えます。悪影響を与えるのですがしっかりとした目で見ないと日常の作業の中に隠れ気付き難い項目でもあり見落とされます。

 これを防ぐには、仕事の中に若干の余裕を持たせ考えたり学んだりする時間を作る必要があります。もちろんその時間を作るのは上司の役目ですが現場を離れてしまうと誰もが通る道を忘れてしまいます。現場現物現実が大切なのです。
 

ただ愚直に

 人は、2、3度会った時の印象で相手を信用してしまうそうです。特に子供が、といわれますが大人だって同じ、違うのはその後の行動をすべて信用するか、その後も相手の行動に変なところがあれば疑うかの違いでしょうか。

 出来ることなら疑り深い大人には成りたくありません。出来ることならば思慮深い大人になりたいと思います。その違いは、まずは人の話を素直に受け入れて、その後で論理的に物事を考えるかどうかの違いだと思っています。

 相手に信頼されるためには、信頼に値する行動を繰り返し喜んで行い続けることが必要です。もちろん何かしらの理由で行動できない時もあるでしょう。その時人は、悔やんだりします。そして出来るようにする工夫を考えます。

 地位や肩書で人を信頼するのは、間違いです。自分より目下のものや意にそぐわない者を信頼しないのも間違いです。そういったメガネで人を見る方に信頼を求めても意味がありません。私は、信頼を求めず愚直に生きたい。
 

怒らないで

 人は、何故怒るのだろう?思い通りにいかない時に怒るのだろうか?酷い目にあわされた時に怒るのだろうか?小さい子供は少し違う。思い通りにならなければ泣き、酷い目にあえば怯える。最初から怒り出す子供はいない。弱いから?

 強くなると怒るようになるのだろうか?強く成れば思い通りに出来るのだろうか?酷い目にあわなくなるのだろうか?確かにそういう一面はあるのだろうけれども幾らか違うような気がする。強さが体格や力であるのならば、もっと上がいる。

 悪も強い力だから心弱いものは、騙されやすい。心穏やかでない人は、悪を心の中に描きやすい。大人が騙されたり傷付つけられれば、怒るのが当然だと思う。だけれども思い違いと言うのも良くあることで、怒られた人は怒り返すだろう。

 私は、怒るならば悲しみたい。怒鳴る前に、行動に出る前に心の思いを整理して誰かに伝えたい。体も大切だと思うけれども心の強さを求めたい。だから沢山の怒っている人にお会いしその心を訊ねたい。何故、傷付き怒るのか訊ねたい。