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でもね

 「利口なのかバカなのかよくわからない」とよく言われます。利口ということはありません、ですがバカと言われると多少の抵抗感を感じます。多少なのでキットほぼバカなのだろうとは思います。困ったものです。

 どこをバカと言われているのか考えるに、単語を覚えないとか簡単なことが出来ないとかが色々あるからだと思われます。単語を覚えなくても単語の持つ思いは理解していますし簡単なことが出来なくても困りません。

 何時からかマイペースというか周囲が気にならず、人と人、人と自分をあまり比べ無くなり、相手によっての態度も変えれませんし(多少シュチエーションに合わすは出来るかな)何となくニコニコというかボーッとしてます。

 我儘に、自分勝手に生きています。そう生きられるのは幸せだと思いますが、これは考え方、感じ方の問題だけなので誰でもそう生きられると思います。「利口なのかバカなのかよくわからない」と言われたいですか?
 

笑顔の効果

 ロッカー着替え中に後輩から「お聞きしたいことがあります。何故何時も笑顔でいられるのですか?」と問われました。突然だったので一瞬返答にと戸惑いもしましたが「何時も幸せだから、小さなことで幸せになれるんだよ。」と答えました。

 「ただ、これは以前からそうだったわけではないんだよ。昔の私は自分でも嫌いだった、今は大分ましになっていると思うよ。」ロッカーでの立ち話のことですので何の説明にもなっていませんが、何時も通り正直に思ったことを語りました。

 何故何時も笑顔でいるのか?単純に言えばその方が楽だからです。こちらが笑顔だと相手も笑顔を返してくれます。何時も笑顔だと過去の失敗とか未来の心配事など嫌なことを考えません。何時も笑顔だとその瞬間、瞬間に満足できます。

 流石に真面目な時に笑顔なわけではありません。普段笑顔を心がけている程度ですが笑顔の印象が強く残るのだと思います。それほどに笑顔の力が強いと言うことだと思います。笑顔でいるには色々な工夫がいりますが価値はあります。
 

こうあったらいいな

 ミニ社会の様子が分かってくると、私なりの「こうあったらいいな」が出てきて何かしらの行動を取るので、今回の場合なら何となくお互いがお互いを認めだしチームワークが出来てくる。私がどうとかではなく皆がそれを望んでいるのだと思う。

 会社に勤めていても同じ、多分私が居なくてもそちらの方に向かうのだろうけれども、私なりの「こうあったらいいな」を仲間達と磨き上げて何となくそちらの方向に行く。キットどこの会社にも、私のような者が居て皆が望む方向を見付けている。

 社会においては難しい。もちろん私なりの「こうあったらいいな」はある。自分なりに「そうする」方向に進み行動をする。だけど仲間を作ることはしない。出来ない?作りたいと思わない。この辺は、もともとの性格が出てしまう。器なのだと思う。

 政治の話は、ここでは御法度にしています。政治というのも何が正しいが無いように思えるからです。それでも多くの政治家さんや公務員さんは真面目で将来のことを思い「こうあったらいいな」と考えています。問題は私に聞く耳が無いこと?
 

お節介の定義

 私が自律しているか?と問われれば、チト怪しい。まず、私なりにだったとしても自律の定義をハッキリさせる必要がある。ハッキリさせたとしても私の自律の定義は私だけのものであって、私以外の人には、例え似通った性質の人がいたとしてもシックリとは来ないハズ。

 それなのに私は、他人の自律を手伝いたがっている。過去の事実と他人は変えられないと知っていながら自律を手伝いたがっている。自律している人は幸せだとただただ信じて、誰もが幸せになるべきだとただただ信じて、自律へのお節介をするチャンスを伺っている。

 私にとっての自律とは、私にとっての志があり、志に沿った目標が見えていて、目標に向かって歩くことが生活の糧になっていて、近しい周囲もその行動に対し理解を示していて、意見を交わし気持ちを伝えることで次の一歩を踏み出せている状態、といった定義である。

 志を持っている人は少ない。そもそも志を持つことが幸せ、大安心に繋がると理解している人も少ない。人は一人では生きられないのだから、自立に人の手を借りることは、問題ないというか程度の差こそあるものの普通のこと。そのうえで、どうありたいか考えて欲しい。
 

場を作る?

 施設で三日間のボランティアをしたとき、随分と多くの利用者さんとお話しをさせて頂きました。最初は個別で、翌日は複数人での会話を意識して。そうしたら三日目には、別の席の利用者さんがテーブルを離れてお話しに参加しに来てくれました。

 施設の生活は、とても退屈そうです。利用者さんどうしが共同で何かをという時間は、見受けられませんでした。誰かが側に居ても自分一人で多くの時間を過ごすのでは、生活と呼べません。話しかけてみると多くの利用者さんは、お話し好きです。

 施設に限りません。私の周りに誰かが自然と集まってくれるようになったのは、何時からでしょう?そもそも、何故集まってくれるのでしょう?楽しそうだから?私は楽しいです。何故、私は楽しいと思うのでしょう?楽しいを何時まで維持できますか?

 ポッカリ空いた心の穴を埋めてくれる何かを私は誰かに提供できるのでしょうか?目の前の仕事や、その時だけの場繋ぎならできるかも知れません。でも、私が目指すものは、私が離れた後も続く楽しい空間、生活の場の構築、自律への道筋なのです。
 

参加している?

 人にもよるのでしょうが、多くの人には、コミュニティと役割のようなものが必要なようです。孤立ではなく、何らかのミニ社会に受け入れられていると感じられる何か居場所があると、多くの人は安心し心穏やかに生きられるように出来ているようです。

 逆に、衣食住が足りていても、そこに居場所が見いだせない時、多くの人は不安を感じどこか安全な場所に移ろうと行動を起こします。例えば一生懸命働いていたとしても同じで、認めてくれないまでも愚痴を聞いてくれたりする仲間が必要なのです。

 そんな時、ネットの世界に逃げ込む人が居ます。人にもよるのでしょうが、ネットの世界では自分発進が楽に出来ます。何を発信しても相手の顔は見えないし殴られることなどの危険はないと思えるからです。怯えていた自分の中のタガが外れます。

 でも、自分発進で一番怖いのは、相対しての会話ではなく、声を発しての電話でもなく、文字だけのやり取りです。文字だけで自分の思いをキチット発信するのはとても難しく読み手の力量にも影響されます。コミュニティへの参加は気を付かいます。
 

自分確認

 人の生き方は、本当に様々ですし、人である以上、なにがしかの役割があります。そして、誰もが自分の世界を持ち、望む望まないにかかわらずその世界においては誰もが主人公なのです。それを喜ばしいと思うか思わないか、それも様々です。

 できることならば自分を否定的に捉えるのではなく肯定的に捉えたいものです。皆さん自分のことでお忙しいのでわざわざ他人を見ている人など少ないのですけど、この生き方を人に進めないまでも、隠さずに済む程度にはカッコを付けてみたい。

 確かに人に影響されての頑張りもあるのですが、頑張るの結果に味を占めて「それでは今少しだけ頑張ってみようか」と思えればしめたものなのです。が聞くと何を頑張ればよいのかわからない方も多いようで、自分探しもなかなか難しいのです。

 私は私を見付けられたのかな?今を少しだけ頑張れ大きな不安もないので何とかなっているのだと思います。もがき苦しんでいる内に何時の間にかここに居ました。明日の私は分かりません。まして他人など恐れ多くて。でも、何時も私は居ます。
 

ほんの少し

 亡き父のお友達が俳句同人誌の巻頭にて父の残した”俳句13訓”を紹介してくださいました。「自然は常に蘇生している。俳句を作るとは、蘇生する事である。見た事実から心を解き放さなければ創作性は生まれない。心が緩むと俳句が古びる。他」

 「俳句13訓は、俳句の作り方ではなく。俳句に取り組む姿勢、心構えを示唆するものであった。俳人としてとりわけ心すべきこととして、しなやかに角度を変えられる若々しいそして磨かれた”心の鏡”を持つことを強調されておられた。」と、つづきます。

 父親のことは、私自身の生き方を考える時々に思い出します。同じ生き方は出来ません、自然への向き合い方は、まだまだ未熟です。が、人への考え方を中心に共感することは多く、厳しい一面も持ちながら多くの人に愛された父を羨ましくも思います。

 父は父の生き方を貫きました。大袈裟ですね。父は父らしくしか生きられませんでした。それがカッコ悪くとも良くとも、私もあなたも自分らしくしか生きられませんよね。それでも今日は少しだけ、ほんの少しだけ勉強を頑張って見ようかな、って思います。
 

出来ること

 残念なことに結果は、努力しただけしか現れません。努力は、簡単には出来ず、努力を積み重ねた人だけが次の努力が出来るわけで、凡人の私には遠く及ばない世界となってしまいます。それでも日々何かを積み重ねれば、と思うわけなのです。

 努力といっても独りよがりでは、努力とはいえません。時代というものもあるのですが、その時々で人が望むものは様々に形を変えるのです。それに、周りを見れない人に本当の自分が見えるのでしょうか?何を思って何をするか、難しい問題です。

 幸いなことに小さな勇気のお陰で幾つかの扉が開きました。申し込み、ご連絡がいただけなかった先に、お礼だけでもと連絡を取ったところ急遽ボランティアの場を作っていただけました。そして楽しかった三日間、多くの出会いと幸せを貰いました。

 努力とは、とても言えません。でも、思い立ってから新しい出会いに繋げるまでの3か月、小さな小さな勇気の積み重ねではありました。お陰様で更に人に付いて学んでみたいと思うようになりました。努力は、難しいけど小さな勇気なら何とかです。
 

社会の見方

 ボランティア活動は「困っている人のために無償で何かをしてあげること」ではなく、より良い地域社会を築くために社会の一員として自由意思に基づいた主体的な取り組みがボランティア活動の根本です。と教えて頂きました。

 地域社会は、ある範囲を示しますが、それは範囲ごとに環境が違い自ずと生活が違うことが前提となります。社会の範囲も同じように、住む地域を中心に県や国、世界と社会の範囲を広げて考えることで自由な主体性が育ちます。

 ミクロの地域、マクロの社会という違った世界観の中で自由に自分の意志を移動させ、それぞれ違った視点で考えてみる。会社という社会だって同じですね。自分という殻の中で会社を見るか組織や立場を超えて見てみるか。

 社会の一員として自由意思に基づいた主体的な取り組みが出来ている社会人、意外に少ないような気がします。ボランティアに参加して自分の知らない世界を覗き見ることが出来ました。後一日、この経験は私の糧になるでしょう。